本の紹介

1.目次

 序章 黙殺された思想家

第一章 戦前と戦後をつなぐ想像力
一 現代に蘇る大川周明
二 竹内好の大川周明論とイスラーム
(1)大川の思想の核としての宋代儒教とその合理主義
(2)大川のアジア観
(3)大川の宗教観
(4)大川のイスラーム観

第二章 青年期の転回と晩年の回帰
一 「イスラームの二つの顔」 との邂逅
二 学生時代のスーフィズムへの関心
三 「一九一三年夏」 の意味
四 『回教概論』 と植民史研究との架橋
五 コーラン翻訳

第三章 日本的オリエンタリスト
一 太平洋戦争期のイスラームへの視座
二 『回教概論』 とその時代
三 宗教観をめぐって
四 「精神の遍歴」
五 大川周明のまなざしを超えて

第四章 アジア論から天皇論へ
一 アジア研究の先取性と問題性
二 アジア観とイスラーム
三 植民史研究とアジア
四 シオニズム論の揺れ
五 天皇とイスラーム

第五章 東京裁判とイラク問題
一 東京裁判における 「奇行」
二 東京裁判への道
三 「イラク(メソポタミア)問題」 の起源
四 イラク高等法廷におけるフセインと弁護の論理
五 歴史の教訓に学ぶとは?
終章 大川周明にとってイスラームとは何であったのか?
一 『回教概論』 はアジア侵略と何の関係もないのか?
二 大川周明の 「四つの断層」
三 大東亜戦争とアジア主義
四 大川周明の 「継承者」


あとがき

人名索引
事項索引
初出一覧

2.書評

『大川周明イスラームと天皇のはざまで 』
臼杵 陽 著
201008刊/四六判/340頁
定価2520 円(本体2400 円)
ISBN978-4-7917-6556-0
出版元:青土社
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 成蹊大学アジア太平洋研究センターCAPS Newsletter No.108


 信濃毎日2010年09月19日


 図書新聞書評


 朝日2010年10月10日


 読書人2010年09月10日


 読売書評2010年10月17日


 日経2010年09月19日


 毎日2010年10月24日

3.自著を語る―臼杵陽

自著を語る―臼杵陽著『大川周明―イスラームと天皇のはざまで』の周辺<br /
臼杵 陽

拙著『大川周明―イスラームと天皇のはざまで』(青土社、2010年8月刊)が刊行されておよそ4ヶ月が経過した。刊行当初はほとんど反応もなく、大川周明のイスラーム研究というテーマで出版するのはやはり時期尚早だったかとも思ったりもした。しかし、刊行約1ヵ月半後の9月19日付『日本経済新聞』の橋爪大三郎氏の書評を皮切りに、全国紙に書評が掲載されることになった。共同通信配信の地方紙各紙で山内昌之氏、10月10日付『朝日新聞』で中島岳志氏、10月17日付『読売新聞』で片山杜秀氏、10月24日付『毎日新聞』の読書欄での著者インタビュー、そして書評専門紙である9月10日付『読書人』で丸川哲史氏、10月30日付『図書新聞』で友常勉氏、さらに『成蹊大学アジア太平洋センター・ニューズレター』第108号で田浪亜央江氏にも取り上げていただいて、実のところほっとした。その他の媒体で取り上げてくださった方もあるかもしれないが、それはともかくとして、概して好意的に取り上げていただいたと考えている。ただ、一般の方々からの反応はやはり内容的に難しすぎるという感想が多かった。本書においてイスラームの基礎知識についてゼロから説明するのはその役割ではないとはいいながら、やはりまだまだ日本におけるイスラーム理解の促進には時間がかかるという印象はぬぐえなかったし、イスラームを語ることの困難はまだまだ続くということなのかもしれない。

私自身が自著を語るというはいささか気恥かしく感じるが、それよりも屋上屋を架すことにもなりかねない。したがって、なるべく本書の内容に重ならないように書くことことに努めたい。いずれにせよ、そのあたりはご寛恕をお願いする次第である。
さて、本書を執筆したきっかけは「あとがき」に書いたので繰り返さない。まだ本書を読んでない方で、本書の中心的なテーマである大川周明のイスラーム研究について興味ある方は、まず第2章「青年期の転回と晩年の回帰」から読んでいただければ幸いである。本書で私が述べたかった大川周明のイスラーム研究の論点はここに集約されている。一言で要約すれば、大川のイスラーム研究の出発点にはスーフィズムと預言者ムハンマドへの関心があり、1913年にコットンの『新インド』を読むことで転回を経験し、以降スーフィズム的なイスラームへの関心は後退するが、太平洋戦争の勃発を契機に再びイスラームに回帰するというものである。しかし、その回帰は大川の目指したアジア主義の破綻が背景にあり、内面的なイスラームへの回帰であった。そして東京裁判のA級戦犯の被告になったものの、精神的な錯乱のために免訴されて松沢病院でコーランの翻訳を行なうことになる。何故錯乱を境にしてイスラームへの関心を取り戻したのかをこの章では考察したのである。

その際、井筒俊彦が『中央公論』に掲載した論文「イスラームの二つの顔」を参照しつつ、外面的・立法的イスラームと内面的・精神的イスラームという「二つの顔」における1913年の後者から前者への転回、そして晩年には再び後者の内面的イスラームに回帰するという説明の仕方をしたのである。大川自身は1913年の転回を「大乗アジア」を実現すると語っている。アジア主義的な方向性に向かったのである。

ただ、大川の日本主義あるいは日本精神に基づくアジア主義を理解するためには岡倉天心の「アジアは一つ」という考え方を把握しておく必要がある。しばしば誤解されているが、「アジアは一つ」という考え方は日本にはアジア的な文化、とりわけインドや中国の文化が融合されて、一体となっているという文脈で使われている。したがって、その中にはイスラームも含まれているということになる。大川も当初そのように考えた。しかし、私は日本文化にイスラームが含まれているという考え方は無理があると考えて本書では正面から論じなかった。この点は課題として残った。とはいえ、ヨーロッパとアジアという二項対立的な発想の中で「第三項」としてイスラームの果たす重要性を強調した大川の先駆性はここで改めて指摘しなければならないことは言うまでもないことである。

アジア主義の論点に関連して、私は本書で竹内好の議論に依拠しつつ、大川のアジア主義は大東亜戦争(太平洋戦争)勃発の時点ですでに破綻していたことを大川自身も自覚していたという議論を展開した。もちろん、大東亜共栄圏のイデオローグとしての大川の免罪ということを意図したわけではなく、『回教概論』を評価する場合に、あまりにも安易に大東亜共栄圏に結び付けようとする試みが多いと感じられたので、やはりこの点はきちんと押さえておく必要があると思った次第である。

ここで、山内昌之氏による共同通信配信の本書の書評の最後の箇所において指摘されていた問題についても触れておきたい。というのも、文献学的に重要な指摘だと思うからである。山内氏は書評の最後の箇所で「大川がいかなるアラビア語や欧米語の書物との格闘を通してイスラーム研究を深めたのか、それらの本のどこが大川の思想形成に影響を与えたのかなど、文献学的な考察も果たしてほしかった。しかし、これは次世代が果たすべき課題なのかもしれない」と述べているが、大川がアラビア語文献を使用したという傍証となる資料を私自身は確認できなかった。

大川自身がかつて学んだアラビア語を1940年代には長い間読まなかったのでかなり忘れてしまっていたのではないかと推測している。というのも、大川はコーランの翻訳に当たり、漢英仏独の翻訳も参照しているが、その際、アラビア語の翻字一覧にわざわざ手書きでアラビア文字を自ら書き添えているからである。アラビア文字に慣れていれば、普通だったらこのような書き込みはしないだろうと思われるからである。語学の才能に恵まれている大川であればなおさらである。

大川が主に依拠しているのは当時のヨーロッパのイスラーム研究の大御所たちの著作である。この点については本書第三章で簡単ではあるが触れた。酒田市立図書館光丘文庫に所蔵されている大川周明文庫にある英独語を中心とする洋書を見る限り、大川が主に参照したのは当時の標準的なイスラーム概説書である。ただ、現在の日本の研究状況ではオリエンタリスト的なイスラーム研究に関する論及が極端に少ないという学問的な状況があり、むしろ研究史としてサイード的なオリエンタリズム批判を踏まえた上で新たな見地から改めて19世紀から20世紀前半にかけての欧米のイスラーム研究を議論する必要があることはここで強調しておきたい。

さらに、文献学的な観点から重要な問題として、戦前日本のイスラームに関する研究所がどのようなイスラーム関係の文献を収集していたかを書誌的にきちんと把握するという作業が必要であるが、管見のかぎりではまだなされてはいない。理由はいろいろと考えられるが、最大の要因は、例えば、回教圏研究所の蔵書が疎開直前に米軍による空襲ですべて灰燼に帰し、消失してしまったことであろう。また、膨大なコレクションを誇った大川の所属する東亜経済調査局の蔵書も米占領軍(GHQ)によって没収され、米国に持ち帰られてしまい、米国の諸大学の図書館に分置されて、ばらばらになってしまったといわれていることも挙げられる。この東亜経済調査局の旧蔵資料の追跡調査もまだ行なわれていないことも大川のイスラーム研究を進める上で障害になっている。

ところで、本書で使用した大川の主要著作の一部は文献国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」(http://kindai.ndl.go.jp/index.html)において公開されているが、とりわけ重要なのは『日本文明史』初版本である。ベストセラーになった『日本二千六百年史』に比べれば、はるかに活き活きとした叙述であるし、また内容もラディカルでもある。また『復興亜細亜の諸問題』初版本も本書の校正が校了した後の2010年7月27日に同サイトに公開されたので、本書の中で初版本はなかなか手に入らないという事実は変わらないものの、初版本では所収されていたが再版以降は削除された「猶太民族の故国復興運動」の章については、現在では誰でもインターネット上で閲覧できるようになり、その公開の事実を本書に反映できなかったことを改めてここで指摘しおきたい。

最後に、本書であえて触れなかった(あるいは触れるにはちょっと私の能力からして難しかった)論点が二つあることを指摘しておきたい。その第一はインドに関する大川の諸論考である。大川のインド論については長崎暢子氏が周到な批判的な論文を書いていることは当然承知していたが、議論の中に組み込むことができなかった(長崎暢子「大川周明の初期インド研究-日印関係の一側面」『歴史学研究報告』東京大学教養学部歴史学研究室、通号第16号、1978年、117~150頁)。第二は第一の論点と密接に関わるが、大川の神智学への関心である。この点はポール・リシャールやシュタイナーとの関係で論じられている。本書でまったく触れなかった重要な論文として吉永進一氏の「大川周明、ポール・リシャール、ミラ・リシャール―ある邂逅」『舞鶴高等工業専門学校紀要』43号、2008年、93-102頁(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007124470)がある。
また、本サイトでもアップされているが、私自身、板垣雄三氏の講演記録「大川周明の遺したもの」を本書の出版前に講演などで聴くか、あるいはその草稿を読むかしたら、おそらく本書の出版を躊躇したかもしれない。というのも、板垣氏は私よりもはるか以前から大川周明のイスラーム研究の重要性を認識して、様々な機会に語っていたわけだし、私自身もそのような氏の議論に触発されて大川研究に足を踏み入れたからである。いずれにせよ、板垣氏の先駆け的な研究については改めて議論することにしたい。

 自著を語る.pdf (このページと同じ内容です)